生の実感

エロでしか得られないんじゃん。どくどく。「愛の流刑地」です。
(2日)
野分の3日後は菊治の誕生日だ。56歳になった。
鏡を見ると少しやつれ、鬢や髭にも白髪が目立つ。以前はやや肥り気味だったが、拘置所での規則正しい生活で少しやせたようだ。何だかわびしく見える。常にへこへこしているせいか背中も丸まってきた。冬香と付き合っていた頃はもっと生き生きして目も輝いていたはずだったのに。
冬香は「素敵で頼もしいわ」と言ってくれていたし、めがねをかけてないときに「童顔で、笑顔が可愛いわ」と唇を寄せてきたものだった。
あの頃は年齢のことなんて気にしていなかった。いい年をして、と思いつつ「それでいいのだー」と肯定していた。あのめくるめく青春は、冬香の従順と淫蕩という二つの魔性に誘われ、溺れこみ、それによって生を実感していたのだ。今は規則正しい静謐なときが淡々とすぎるばかりで、どんどん萎えていく。

だとすると、「誤りなく穏やか」などということは、人間を老化させ、凡庸にさせるだけのことなのか。
「ふゆか…」

…おかしいなあ、いい年をしてあとちょっとだからと自由席の料金で指定席だのグリーン車だのに乗り込んで車掌に説教垂れてるおじいさんは、誤りまくりで穏やかに暮らしてないけど相当老化してるんだけどなあ…まあいいか。
冬香が生きていたら、今頃箱根の夜みたいにムッハー!な一日を過ごしてるはずだったろうに…
そんなポンチ事を考えていると、看守から「おい、手紙だぞ」と声をかけられる。
つづく。
「冬香が生きていたら」て、誰のせいで冬香は死んだと思てんねん。
菊治も淳ちゃんも「オレはパンピー(死語)とはちゃうねん、普通の穏やかな生活とかできへん特別な人間やねん、凡庸なんて言葉似合わへんねん」的イヤラシさが垣間見えますな。