エッセイとどこが違うのか

主人公は別に菊治じゃなくていいじゃん。「愛の流刑地」です。
冬香が満ち足りて果てるのはいつもと変わりないが、回を重ねるごとにその「究極の愛の世界への飛翔」は微妙に変わりつつある。最近では悦びの表現は多彩になり、頂点も長く、乱れ方も激しくなった。いまでは冬香自ら貪欲に快楽を求め、狂気につかれたように昇り詰める。

この経緯は、まさしく菊治自身の冬香への愛の深さであり、冬香の菊治への執着の深さ、そのものである。

2人が交わす愛の言葉も、最初は「君が好き」「あなたが好き」から「大好き」「大々好き」、「わたしは、あなたの好きの、その倍よ」「俺はその倍の倍」、そして「好きという言葉では足りないわ」と変化する。

いったい、このようにエスカレートしていって、果てはどうなるのか。俗にいう、若者同士の純愛でなく、心も肉体も狂おしく燃えて、執着しきった大人の男と女の純愛は、どこへ流離い、どこに辿りつくのか。

「純愛」でました、キーワード。淳ちゃんがこの小説で訴えたかった「大人の純愛」ですね。その割には直前に述べられた相手を好きだと表現する言葉が稚拙なのは目をつぶったほうがいいのでしょうか。読者も大人になって、好きの渦中にいる人はバカになってるからしょうがないよね、と見逃してあげるのが優しさでしょうか。
それはさておき。菊治の語りは続きます。
今の2人を他人が見たら、単なる不倫だというかもしれないが、菊治にしてみたら「不倫純愛」とでもいえる愛の形だ。単なる不倫を超え、はるかに純粋に、一途に研ぎ澄まされていく。不倫は純粋だ。結婚とは違って、打算のかけらもない愛なのだ。

その無私のなかで、なお狂おしいほど求めあう、これこそまさに、純愛以外のなにものでもない。

つづく。
えー。(すごくイヤそうに)
今まで淳ちゃんやら不倫渦中さんたちが言っていた「結婚は打算、不倫は純愛」という使い古された言葉から一歩も外に出ていないことに驚きです。
淳ちゃんよ、若者に流行っている純愛小説に異論を唱えるために書いたのならば、こういう風に直接主人公に語らせるのではなく、彼らの行動から滲み出せ。それができないなら書くな。淳ちゃん、これって小説にする意味あるの?エッセイで繰り返し書いてることを、そのまま小説の主人公に言わせてるだけじゃないですか。小説にするなら登場人物にやたらめったら直接的に語らせるのではなく、行動や自然に交わされる会話からしのばれるように書いたほうがいいのではないか。単に菊治が語るなら、淳ちゃんエッセイと同じではないですか。
ちなみに小松先生の挿絵は爆笑ものです。合体した2人が全裸のまま天にむかって飛んでいます。図書館などで是非ごらんあれ。