愛の結晶完成

なんかつまらなそう。「愛の流刑地」です。
(12日)
菊治は書き上げた原稿を机の上に乗せてみる。ざっと400枚ほどである。
よくここまで書き上げたものだとわれながら感心する。
これまでも書こうと思いながらも日々の生活に追われ腰砕けになっていたが、このままでは読者からも文壇からも忘れられてしまうという危機感と、何とか返り咲きたいという執念で書き上げることができたのだ。壁にもぶちあたったが、冬香との愛が深まるにつれ書き進めていくことができた。これぞまさに「愛の結晶」である。
予定では来週早々にでも出版社に持っていくつもりだ。今では中瀬のいる新生社と明文社の2社しか知り合いがいない。できれば明文社から出版できるといいのだが…
この小説の内容は、愛における熱情と虚無の葛藤を描いた。後半につれ虚無が色濃くなるが、これは冬香との日々の実感から得たものである。どんなに激しく狂おしく愛しても、最後は虚しさの渕に突き落とされることになる。考えた末にたどりついたのは、射精という行為についてだ。猛々しい快感のあとの虚脱感と喪失感は何なのだろう。

この、男だけに与えられ、課せられている虚無感が、のちに男が世を忍び、隠棲を求めるに至る、原点なのではないか。

(13日)
小説の中では女性の性についても触れている。女性は受身だが、そこからいろんなものを得て膨らんでいく。快楽の中身は深く多彩で、余韻と共に身体の中に留めておける。そこから時には妊娠・出産・意気地育児へと続いていく。
男の性は尻すぼみだが、女の性は未来へ広がる性だ。「虚無と熱情」で書きたかったのはこの二者の違いであり、そこから生じる相剋である。

それは見方を変えたら、女の情熱に対する男の虚構の挑戦であり、その結果、最後は男だけ無残に滅びてゆく。
むろん小説では、この葛藤を理論的に説明したわけでなく、無意(むい)という男と満子(みちこ)という女との、愛の誕生から終焉までを描くことによって、自ずと主題が浮かびあがる構成になっている。

冬香なしではこの小説の成立はないので、小説の冒頭に「この小説を、愛するFへ捧げる」と書いた。書きつつも菊治は、Fでは漠然としすぎて分からないからいっそ「F香」か「冬香」と記した方が印象が強くなるかもしれない、と迷う。だが、漠然としている方がいいし、それでも冬香にはわかってもらえるだろうから「F」にする菊治。
「虚無と熱情」はコレで完成である。
つづく。
いつのまにか出来上がっていた小説について詳細に説明でございます。わたしゃてっきり主人公は竹脇無我かと思いました。満子さんもみちこだっただなんて。あたしゃてっきり(ピー:自主規制)かと思いました。だって(ピー)。
それはそうと、キョムネツ完成しちゃいました。理論的にではなく、自ずと主題が浮かび上がる構成に、と菊治はおっしゃってますが、本当ですかね。冬香との会話だけを見てもとてもそんな芸当ができるようには思えないのですが…ま、口下手なのかもしれません。(これものすごい好意的解釈なので…)もちろん淳ちゃんにもできるとは思えないです。今現在「愛の流刑地」にて淳ちゃんの言いたいことが菊治と冬香の行動から浮かび上がってるとはいえない状態ですからね。主題はすべて菊治の口からと地の文にて語られているところでございまするよ。